どこで、誰が話している?
フィリピンのことばである。母語として話す人は約3,300万人(2023年)、第二言語として使う人が約5,400万人(2020年)。合わせると約8,700万人。もともとの土地はルソン島の中部から南部、首都マニラのあたりで、そこから国じゅうに広がった。名前は taga-ilog(川のほとりの人)から来ているとされる。
ややこしいのは呼び名だ。1987年の憲法が定める国語は「フィリピノ語」で、タガログ語という名ではない。ただし中身はタガログ語を土台にしていて、語彙も文法もほとんど重なる。公用語はフィリピノ語と英語である。国外でも強く、アメリカでは家庭で話される言語として、英語・スペイン語・中国語に次ぐ3番目にあたる。
どんな音がする?
音素は約21。子音16、母音5で、数としては少ないほうだ。しかも母音はもともと a・i・u の3つしかなかった。e と o はスペイン語との接触で加わった新参者で、古い語ではいまも e と i、o と u が揺れやすい。
日本語話者に都合がいいのは、/f/・/v/・/z/ がないこと。コーヒーは kape(カペ)になる。気をつけたいのは声門閉鎖音のほうで、「あっ」と言うときに息が止まるあの音が、語のなかや語尾にはっきり立つ。
どんな文字で書く?
いまはラテン文字。1940年に定められたアバカダは20文字だったが、1987年に28文字のフィリピノ・アルファベットへ広がり、c・f・j・ñ・q・v・x・z が正式に席を得た。その前にあったのがバイバインである。baybay は「綴る」という意味で、文字の名がそのまま「綴ること」を指している。1300年ごろから使われた表音文字で、一字がそれ自体で「子音+a」を表す。kudlit という小さな点を字の上に打てば母音が i/e に、下に打てば u/o に変わる。
1593年の『ドクトリーナ・クリスティアーナ』——フィリピンで現存する最古の印刷物——には、同じタガログ語の文がラテン文字とバイバインの両方で刷られている。ただしこの文字には、母音で終わらない子音を書く手立てがなかった。宣教師は十字形の krus-kudlit を足して母音を消せるようにしたが、この工夫は広くは受け入れられなかった。
文法のクセ
いちばん違うのは、文が動詞から始まることと、「主語」の決め方だ。ang という印のついた語が文の焦点になり、その語が動作の「する側」なのか「される側」なのか「場所」なのかを、動詞のかたちが示す。オーストロネシア語族に特徴的なこの仕組みを、フォーカス(トリガー)と呼ぶ。
たとえば sulat(書く)という語根に -um- を割り込ませて sumulat にすると「書く人」が焦点になり、-in をつけて sulatin にすると「書かれるもの」が焦点になる。英語の能動・受動に似ているが、どちらかが例外的ということはなく、両方とも同じくらい普通の言い方である。もうひとつ、文に添える po/opo。目上の人と話すときのこの一語があるかないかで、同じ内容がまったく違って届く。
この言語でしか言えない言葉
歴史をひとことで
スペインが来る前から、この島々は海でつながっていた。salamat はアラビア語の salāmāt(salāma「無事・健康」の複数形)に由来し、マレー語の selamat と同じ源を持つ。マレー語では「無事」の意味のまま残り、タガログ語では「ありがとう」になった。交易路の記憶が、あいさつのひとことに入っている。
そのあと、スペインの統治が330年あまり続く。コーパスで数えると、いまのタガログ語のテキストの語彙の約20%がスペイン語由来だという。mesa(机)、silya(椅子)、kuwento(話)。
国語になるのは20世紀だ。1937年12月30日、ケソン大統領が行政命令第134号でタガログ語を国語の土台と定めた(発効は2年後)。1940年、ロペ・K・サントスが最初の国語文法書『Balarila ng Wikang Pambansa』を書く。名前は1959年に「ピリピノ」へ、1987年の憲法で「フィリピノ」へと変わった。替え続けたのは、170を超える言語を持つ国で、これが「タガログ人だけのことば」に見えないようにするためでもあった。
いま、この言語は
危機度は「安全」。話し手はむしろ増えている。議論になっているのは、この言語の存続ではなく、ほかの言語との関係のほうだ。
2012年から、学校では幼稚園から小学3年まで、その土地の母語で教えることになっていた。ところが2024年10月10日、共和国法第12027号が大統領の署名を経ないまま成立し、この方針は終わった。指導言語はフィリピノ語と英語に戻り、地域の言語は補助にまわる。国の共通語が強くなることと、地方の言語が学校から遠のくことは、同じ出来事の裏表でもある。
ことばカード
もし学ぶなら
おすすめの入り口
綴りはほぼローマ字読みで通る。最初の壁は音ではなく、文のつくりのほうだ。動詞のかたちが「誰・何に光を当てるか」を決めるので、単語を覚える前に sumulat と sulatin のような一組を声に出して比べてみるといい。ここが腑に落ちると、残りは急に整理される。
それから po を早めに覚えること。丁寧さがこの一語に集まっているので、知らないと言い方全体が素っ気なくなる。逆に、街の会話には英語が大量に混ざる。教科書どおりの文が聞こえてこなくても、それがこの言語のいまの姿だ。
話し手の数は推計で、資料によって幅があります。音声は端末の合成音声で、話者による録音ではありません。