どこで、誰が話している?
イヌクティトゥット語を話すのは、カナダ北部の北極圏に暮らすイヌイットだ。2021年の国勢調査では、母語とする人が約3万8,000人、話せる人まで含めると約4万2,000人。中心はヌナブト準州で、住民の約63%がイヌイットの言語(イヌクトゥット)を母語のひとつに挙げている。
ヌナブト準州の公用語はイヌクティトゥット語・イヌインナクトゥン語・英語・フランス語の4つ。北西準州でも1984年から公用語のひとつだ。準州都イカルイト(Iqaluit)の名は「魚がたくさんいる場所」という意味で、1987年にフロビシャー・ベイから改称された。言語の名前そのものも意味を持っていて、inuk(人)+ titut(〜のやり方で)、つまり「イヌイットのやり方で」である。
どんな音がする?
母音は a・i・u の3つだけ。ただしそれぞれに長短があり、長さが意味を変える。子音は約15。耳に残るのは、のどの奥で出す q だ。「クヤンナミーク(qujannamiik=ありがとう)」の頭にも、「イカルイト」「ヌナブト」の中にも顔を出す。
使う音が少ないぶん、単語は長くなる。似た音の連なりがゆっくり続いて、ひと息が一文になる——そんな響きの言語だ。
どんな文字で書く?
ᖃᓂᐅᔮᖅᐸᐃᑦ(カニウヤークパイト)と呼ばれる音節文字を使う。三角、くの字、曲線といった少ない図形を、向きを変えて使い回すのが仕組みだ。同じ形を右に向けるか左に向けるか上に向けるかで、乗っている母音が i・u・a と入れ替わる。長い母音は上に点を打ち、母音のつかない語末の子音は小さく上付きにして添える。だから覚える「形」は、字数の割に少ない。
出自は借りものである。1860年代、宣教師たちがクリー語のために作られた音節文字を北極圏の言語に合わせて改造し、エドマンド・ペックが1870年代以降これを各地に広めた。1976年にイヌイット文化研究所が表記を整理し、いまの「新しい書き方(titirausiq nutaaq)」になっている。
文法のクセ
語根のうしろに接尾辞をいくつも足して、単語ひとつで文をつくる抱合語だ。よく引かれる例が qangatasuukkuvimmuuriaqalaaqtunga。「飛行機」→「飛行機の場所(=空港)」→「そこへ」→「行かなければならない」→「これから」→「私が」と部品が積み上がって、「私はこれから空港へ行かなければならないだろう」の一語になる。
名詞の数え方も日本語と違う。単数・複数のあいだに双数があって、「2つ」だけは専用の形を使う。名詞の格は8つ、動詞は人称・数・法をまとめて語尾で示す。主語と目的語の印の付き方も、英語や日本語とは仕組みが違う能格型だ。
おもしろいのは、はい/いいえの伝え方。ことばの ii(はい)・aagga(いいえ)もあるが、会話では眉を上げれば「はい」、鼻と額にしわを寄せれば「いいえ」で通じる。
この言語でしか言えない言葉
歴史をひとことで
19世紀に宣教師が来るまで、この言語は書かれることのない言語だった。知識も物語も、声で受け渡されてきた。音節文字が入り、聖書が訳され、読み書きが広まる。
転機は第二次大戦後だ。英語による学校教育が持ち込まれ、子どもたちは家の言語から引き離された。流れが変わるのは1960年代以降で、1999年4月1日、イヌイットが多数を占めるヌナブト準州が誕生し、イヌクティトゥット語は議会と行政の言語になった。
いま、この言語は
危機度は「脆弱」。数の上ではまだ元気に見えるが、年齢で割ると景色が変わる。ヌナブトのイヌイットのうち、55歳以上では約91%がイヌクトゥットを母語とするのに対し、15歳未満では約66%。いっぽう住民の約94%が英語で会話できる。世代を下るほど英語に傾いているということだ。
制度の側も揺れている。2008年の法律は2019年までに全学年での二言語教育を実現するとしていたが、教員不足などで間に合わず、2020年の改正で達成期限は2039年に先送りされた。言語コミッショナーからは「世代が権利を先送りされている」という批判が出ている。
デジタルでは手が打たれている。音節文字はUnicodeに収録され、ヌナブト準州政府は専用フォントを配布し、主要なOSに入力手段がある。2019年にはイヌイット・タピリート・カナタミが、地域ごとにばらばらだったローマ字表記をひとつに揃える Inuktut Qaliujaaqpait を採択した。書き方が揃えば、辞書も教材も機械翻訳も、まとめて作れるようになる。
ことばカード
もし学ぶなら
おすすめの入り口
無料の学習サイト Inuktut Tusaalanga(tusaalanga.ca)が入り口になる。名前は「聞かせて」という意味で、単語や会話に音声がついていて、方言を選んで学べる。
最初にやるといいのは、音節文字の表を「向き」でまとめ直してみること。ᑎ・ᑐ・ᑕ のように同じ形が回るだけだと気づけば、あとは形の数ぶんしか覚えることがない。ᓄᓇᕗᑦ(Nunavut)や ᐃᖃᓗᐃᑦ(Iqaluit)が読めたら、その日はもう十分だ。
話し手の数は推計で、資料によって幅があります。音声は端末の合成音声で、話者による録音ではありません。