どこで、誰が話している?
イディッシュ語は、決まった国を持たない言語だ。2021年のラトガース大学の推計では、アメリカに約25万人、イスラエルに約25万人、そのほかの国に約10万人。母語の話し手は合わせて約60万人以下とされる。いま毎日この言語で暮らしているのは、主にハシディズムをはじめとする超正統派のユダヤ教徒の共同体である。
名前の ייִדיש(イディシュ)は、「ユダヤのドイツ語」を意味する Yidish-Taitsh を縮めたもの。ロシアのユダヤ自治州では公用語で、イスラエル・スウェーデン・オランダ・ポーランド・ウクライナなどでは少数言語として認められている。
どんな音がする?
耳に入る響きは、かなりドイツ語に近い。「ありがとう」は אַ דאַנק(ア・ダンク)で、ドイツ語の danke とほぼ同じ骨組みだ。
ちがいも小さくない。数字の5はドイツ語で fünf だが、イディッシュ語では finf(フィンフ)になる。ドイツ語の ü のように唇を丸めて出す母音が、イディッシュ語では i や e に寄っていく。同じ単語でも、口の形がひとつ違うだけで、別の言語の音になる。
どんな文字で書く?
書くのはヘブライ文字で、右から左へ進む。ただしヘブライ語と大きく違うところがある。ヘブライ語はふつう母音を書かないが、イディッシュ語は母音を文字で書く。アに אַ、オに אָ、エに ע、イに י、ウに ו を使う。ヘブライ語では黙っていたり子音だったりする字に、母音の役を与えたのだ。
おもしろいのは、ヘブライ語やアラム語から入った単語だけは、元の綴りのまま母音を書かずに残すこと。1つの文のなかに、2つの綴りかたが同居している。書きかたの標準は、研究機関YIVOが1935年に最初の規則をまとめた。
文法のクセ
文法と単語の土台は、中世の高地ドイツ語。そこにヘブライ語やアラム語の単語が、宗教や暮らしのことばとして入りこんだ。さらに東ヨーロッパに移ってからはスラヴ語の要素が加わり、ロマンス語の名残も少し残る。
つまり1つの文を読むと、ドイツ語系の骨組みに、ヘブライ語系とスラヴ語系の単語がまじる。ユダヤの人々が移り住んだ土地の順番が、そのまま辞書の中に積み重なっている言語だ。
この言語でしか言えない言葉
歴史をひとことで
イディッシュ語は、中世の神聖ローマ帝国で、ユダヤの人々の話すことばとして生まれた。いまに残る最古の文は、ドイツの町ヴォルムスの祈祷書に書かれた1272年の祝福のことばである。その後、話し手の多くは東ヨーロッパへ移り、そこで言語も大きく育った。
1908年、いまのウクライナのチェルノフツィ(当時はチェルノヴィッツ)で言語会議が開かれ、イディッシュ語を「ユダヤ民族のひとつの民族語」と宣言した。1925年にはヴィルナ(いまのヴィリニュス)に研究機関YIVOができ、1940年にニューヨークへ移った。
第二次世界大戦の前、話し手は約1,100万〜1,300万人いた。ホロコーストで殺された約600万人のユダヤ人のうち、約85%がイディッシュ語の話し手だったとされ、言語は一気に話し手を失った。それでも1978年、イディッシュ語で書きつづけた作家アイザック・バシェヴィス・シンガーが、ノーベル文学賞を受けている。
いま、この言語は
UNESCOの危機言語地図(2010年版)では「危険」とされた。ヨーロッパの日常からはほとんど消えたが、ニューヨークやイスラエルの超正統派の共同体では、子どもたちが家で最初に覚えることばとして話されている。毎日話す人の多くがこうした共同体にいる、という点で、ほかの危機言語とは少し違う姿をしている。
一方で、劇場や歌、大学の講座など、文化としてイディッシュ語を学び直す人もいる。宗教の暮らしの中のことばと、学び直されることばの2つの流れが、いまのイディッシュ語を支えている。
ことばカード
もし学ぶなら
おすすめの入り口
まずは文字から。ヘブライ文字の形を覚えつつ、どの字が母音の役をするかを押さえると、ドイツ語系の単語はそのまま声に出して読めるようになる。ドイツ語を少し知っている人なら、意味の見当がつく単語がいくつも見つかるはずだ。
そのあとで、母音を書かないヘブライ語系の単語を、ひとつずつ覚えていくといい。נחת のように、暮らしや気持ちをあらわす大事なことばほど、こちらの側に多い。歌や物語から入ると、響きといっしょに覚えやすい。
話し手の数は推計で、資料によって幅があります。音声は端末の合成音声で、話者による録音ではありません。