どこで、誰が話している?
与那国語は、日本のいちばん西にある与那国島で話されてきたことばだ。島から台湾までは約110km、同じ八重山の石垣島までは約127km。島の人口は約1,700人で、祖納・久部良・比川の3つの集落に分かれて暮らしている。
地元では「ドゥナンムヌイ」と呼ぶ。ドゥナンは与那国島の自称、ムヌイは「ものいい」、つまり「与那国のことば」である。日琉語族の南琉球のグループに入り、いちばん近いのは八重山語だが、ひとつの島だけで話される別の言語として数えられる。
話し手は約400人。国立国語研究所の推計では2010年に393人、2023年の調査報告では「300人程度」とされている。話せるのは高齢層が中心で、若い世代はほとんど聞き取れないという。
どんな音がする?
いちばんの特徴は、母音が3つしかないことだ。「ア」「イ」「ウ」だけで、「エ」と「オ」が基本的にない。日本で話される言語の中でいちばん母音が少ない、と研究者は説明する。
もうひとつ耳に残るのが、日本語のヤ行がdの音で出てくることだ。「山」はだま、「四つ」はどぅーち。ワ行はbになり、「腹」はばたと言う。日本語のカ行の子音が濁ってgになることも多い。さらに語頭では、息を強く出す「カ・タ」と、喉を詰めて出す「カ・タ」とを言い分ける。
どんな文字で書く?
与那国島には、かつてカイダー字という独自の記号があった。米・粟・豆、牛・山羊、布、家ごとの印などを絵のような記号で表し、数は漢数字をくずした形で書く。品物と数量を記録するための絵文字である。
使われたのは、琉球王府が宮古・八重山に課した人頭税の納税記録だ。文字を知らない島の人々が、税の品目と量をこの記号で帳面や木札に刻んだ。1893年に探検家の笹森儀助が『南島探験』に記録し、本土に知られるようになった。人頭税が1903年に廃止され、学校教育が広まると役目を終えたが、いまは島のTシャツや土産物、看板の模様として生き残っている。
現在の与那国語は、ひらがなとカタカナで書かれる。ただし喉を詰める音や鼻にかかる音には対応する字がなく、辞典や教材では小書きの字や補助記号で工夫している。
文法のクセ
語順は日本語と同じ主語・目的語・動詞だ。ただ、動詞の形の変わり方は、日琉語族の中でおそらくもっとも複雑だとされる。活用のしかたで動詞は15のクラスに分かれ、語幹も語尾も相手によって形を変える。
数を数えるときには、日本語の「個・人・匹」のような助数詞がつく。ものを数える「ち」をつけて、ひとつはとぅーち、ふたつはたーち。人・動物・平たいもの・木には、それぞれ別の助数詞がある。
この言語でしか言えない言葉
歴史をひとことで
与那国島は、16世紀のはじめに琉球王国の支配下に入った。1522年、島を治めていた鬼虎が王府に討たれた、と伝えられる。1609年に薩摩藩が琉球を攻めると王府の財政は苦しくなり、17世紀から宮古・八重山には人頭税が課された。カイダー字はこの税の記録の中で育った。
1879年に沖縄県が置かれ、学校では日本語で教えることになった。島のことばは「方言」として家の中へ押し戻され、戦後は本土との往来が増えるにつれて、親から子へ受け渡されることが減っていった。
いま、この言語は
2009年、ユネスコは日本の消滅危機言語8つを挙げ、与那国語を八重山語とともに「重大な危険」に分類した。アイヌ語の「極めて深刻」に次ぐ段階で、沖縄語や宮古語の「危険」よりひとつ重い。国の分類ではいまも「与那国方言」と呼ばれ、独立した言語としての位置づけは弱い。
それでも島では記録と継承が進んでいる。与那国町教育委員会は2019年に『どぅなんむぬい辞典』を刊行した。与那国語から引く本文編と、日本語から引く逆引きを備える。島に伝わることわざを集めた「よなぐに方言カルタ」は、2024年の「しまくとぅばの日」(9月18日)にデジタル版が公開された。2023年には文化庁の「危機的な状況にある言語・方言サミット」が与那国島で開かれた。
カルタの札には、こんなことわざがある。「宇良部岳は見えるが、自分の眉毛は見えない」。島でいちばん高い山を引き合いに出した、灯台もと暗しの与那国版だ。
ことばカード
もし学ぶなら
おすすめの入り口
まずは「ふがらっさ」を覚えること。島の店や空港で口にすれば、返事が返ってくる。次に、日本語のヤ行の単語をdに置きかえてみる。「山」がだま、「四つ」がどぅーち。ひとつの島の中で、日本語の音がどう変わってきたかが見えてくる。
本格的に知りたいなら、与那国町教育委員会の『どぅなんむぬい辞典』が入り口になる。ことわざで学ぶ「よなぐに方言カルタ」のデジタル版は、島の外からでも遊べる。
話し手の数は推計で、資料によって幅があります。音声は端末の合成音声で、話者による録音ではありません。