どこで、誰が話している?
広東語を話すのは、香港・マカオと、中国の広東省を中心とした地域、そして世界じゅうの華人コミュニティだ。母語話者は約8,500万人。「中国語の方言」と呼ばれることが多いが、その人数はドイツ語やトルコ語と並ぶ規模である。
香港では2021年の人口センサスで、約88%の人が「ふだん使う言語」として広東語を挙げた。話せる人は5歳以上の約94%。ただし法律上の公用語は「中国語と英語」で、「広東語」という名前はどこにも書かれていない。どの中国語かを決めないまま、実際には広東語が行政と教育を回している。
どんな音がする?
まず声調がある。数え方によって6つとも9つとも言われる。9つと言うときは、p・t・k で終わる短く切れる音節(中国語音韻学でいう入声)を別扱いにしている。ただしその3つは、ほかの6つと同じ高さを使い分けているだけなので、いま主流のローマ字表記「粤拼(イュットピン)」では声調を1〜6の6段階で書く。
日本語話者にとって面白いのは、このp・t・k で終わる音節が残っていることだ。「一」は jat1(ヤッ)、「十」は sap6(サップ)。日本語の音読みで「いち/いつ」「じゅう/じっ」と二通りあるのは、もとの中国語にこの詰まる終わりがあったからで、広東語はそれをそのまま保っている。北京語では消えてしまった音だ。
どんな文字で書く?
文字は漢字。香港・マカオでは繁体字を使い、広東省では簡体字を使う。おおもとの字は同じだが、書き言葉には広東語専用の字がある。「唔」(〜ない)、「冇」(持っていない)、「佢」(彼・彼女)、「嘅」(〜の)、「咗」(〜した)。これらは北京語ではまず使わない。
たとえば「持っていない」は、北京語なら「没有」と二字。広東語にはそれを一字で書く「冇」がある。「有」の中身を抜いた形で、無いことを表す字だ。
文法のクセ
語順は「私・読む・本」で、ここは北京語と同じ。ちがうのは細かいところで、細かいところほど日常でよく使う。「〜した」は「了」ではなく「咗」、否定は「不」ではなく「唔」。この二つが入れ替わるだけで、文はもう通じなくなる。
数を言うときは、日本語と同じように助数詞(量詞)を選び分ける。本は「本」、人は「個」、平たいものは「張」。「一冊」「一人」「一枚」の感覚に近い。
もうひとつは文末につく小さな語で、これがとても豊富だ。意味はほとんど訳せないのに、つけ方で話し手の気分がまるごと変わる。日本語の「〜ね」「〜よ」に近い役目である。
この言語でしか言えない言葉
歴史をひとことで
広東語は、中国南部の珠江デルタで育った言語だ。唐の時代の詩を広東語で読むと、北京語で読むよりきれいに韻を踏む、とよく言われる。これは広東語が中期中国語の6つの末子音(-p -t -k -m -n -ng)を全部保っているからで、北京語はあとから音を落としている。失われたものを持っている言語だ。
20世紀後半、広東語は話し手の数を超えて広く聞かれる言語になった。香港の映画と広東語の歌が、東アジアから世界の華人社会へ届いたからだ。1980年代、中国のテレビ局は普通話が原則だったが、広州テレビは例外的に広東語放送を認められた。香港とマカオの視聴者を引きつけるためである。1993年には香港言語学学会が「粤拼」をまとめた。
いま、この言語は
危機度は「安全」。話し手は数千万人いて、映画も音楽もニュースもこの言語で作られている。それでも「広東語を守る」という言葉は、この20年ずっと語られ続けている。
ひとつのきっかけが2010年だった。広州市の政治協商会議で、広州テレビの主要チャンネルに普通話の番組を増やす案が出た。同年秋のアジア競技大会を控えた時期のことである。これに反対する人たちが7月末から広州と香港で集まり、「広東語を守れ」を掲げた。局側は「歴史的な経緯と現在の需要」を理由に案を退け、広東語と普通話の二本立てを続けた。
そのあとも、広州の若い世代が家庭でも普通話を使うようになっている、という指摘は続いている。数の多さは、そのまま安心には変わらないのだろう。
ことばカード
もし学ぶなら
おすすめの入り口
漢字を知っている人には、入り口がとても近い。ただし最初にやるべきは漢字ではなく、音のほうだ。「粤拼」で6つの声調と、p・t・k で終わる音節を先に押さえる。ここを飛ばすと、漢字を読めるのに聞き取れないという状態になりやすい。
香港言語学学会が粤拼の一覧を公開しているので、音の地図として手元に置くとよい。あとは「唔」「冇」「佢」「嘅」「咗」の5字を覚えるだけで、街の広告やSNSの文がぐっと読めるようになる。
話し手の数は推計で、資料によって幅があります。音声は端末の合成音声で、話者による録音ではありません。