「1」という言葉さえ、ない言語
ブラジル・アマゾナス州、アマゾン川の支流マイシ川のほとりで、約250〜380人が話す言語がある。ピダハン語だ。ムラ語族のなかで、いまも話されている唯一の言語とされる。
この言語には、数を表す語がほとんどない。あるのは hói、hoí、baágiso の3語だけで、最初の2つは声の高さ(声調)だけで区別される。長くこの3語は「1・2・たくさん」と訳されてきた。ところが詳しく調べると、そのどれもが決まった数を指していなかった。ピダハン語は「1」すら言えない言語だったのである。
糸巻きを増やすか、減らすか
2008年、マイケル・フランクとダニエル・エヴェレットらは、糸巻きを使った簡単な実験をした。1個から始めて1つずつ10個まで増やしながら「これはどれくらい?」と聞く。逆に10個から1つずつ減らしながらも聞く。
| 語 | 増やしていくとき | 減らしていくとき |
|---|---|---|
| hói | 1個 | 6個まで |
| hoí | 2個以上 | 4〜10個 |
| baágiso | 3個以上 | 7〜10個 |
増やす順なら hói は「1」に見える。ところが減らす順では、6個にも hói が使われた。つまりこれらは「1・2」ではなく、「少ない」「もっと多い」のような、そのときの比べ方で決まる言葉らしい。研究チームは、ピダハン語には正確な数を言葉で表す方法がまったくない、と結論づけた。
数えられなくても、並べることはできる
では、言葉がなければ「ちょうどいくつ」という考えも持てないのだろうか。2004年、ピーター・ゴードンは、目の前の物と同じ数だけ電池を並べてもらう課題で、ピダハンの人々の答えが3を超えるとずれていくことを報告した。言葉が考えを決めるのでは、という問いが改めて注目された。
ところがフランクらが同じ課題をやり直すと、物が目の前に見えていれば、10個近い数でも正確に1対1で並べられた。うまくいかなかったのは、物を隠して覚えておく必要がある課題のほうだった。数の言葉は「ちょうどいくつ」という感覚そのものを生むのではなく、その数を覚えて、時間や場所を越えて運ぶための道具だ、と研究チームは考えた。論文の題名はそのまま「認知の技術としての数」である。
ピダハンの人々自身が、交易でだまされないよう数を教わりたいとエヴェレットに頼んだこともある。毎日の勉強は約8か月続いたが、10まで数えられるようになった人はいなかったという。道具は、使う暮らしがなければ根づきにくい。
5まで数える言語、20まで数える言語
ピダハン語だけが特別なわけではない。同じアマゾンのムンドゥルク語には、5より大きい数の語がない。2004年にピエール・ピカやスタニスラス・ドゥアンヌらが調べると、話者は名前のない大きな数でも、点の多い少ないをおおよそで比べたり足したりできた。一方、4や5を超える数の正確な計算は苦手だった。おおよその量の感覚と、正確に数える仕組みは、別のものらしい。
『世界言語構造地図(WALS)』の調査では、約196言語のうち約20が「数詞が20あたりより先へ進まない」言語に分類されている。オーストラリアのマンガライ語は3まで、イディニ語は約5まで。こうした言語は、ほぼオーストラリアとアマゾンに集まっている。大きな数を使う暮らしかどうかが、言葉の側にも表れるのだろう。
で、日本語はどうか
日本語には数の言葉が2組ある。中国語から来た「いち・に・さん」と、もとからの和語「ひとつ・ふたつ・みっつ」だ。和語の数は「とお」で終わり、11からは漢語に頼る。けれど昔は、20を「はた」、30を「みそ」、100を「もも」、1,000を「ち」、10,000を「よろず」と、大きな数にも和語があった。「はたち」「みそじ」はその名残である。
暮らしで大きな数が必要になると、言語は自分で作るか、よそから借りる。日本語は大陸から借り、和語の大きな数は少しずつ使われなくなった。数の言葉は人間に生まれつき備わったものではなく、それぞれの社会が作り、借りてきた道具なのだ。20で束ねる数え方は数え方のクセの記事に、20進法のアイヌ語や、ピダハンの隣で広く話されるポルトガル語は図鑑で読める。
言語や文字の分類は研究者によって幅があります。本文は代表的な整理にもとづく概説です。