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עברית

1,700年ぶりに話しことばに戻った言語——ヘブライ語の復活

祈りと本の中でだけ生きていた言語が、19世紀末、子どもの母語に戻った。決め手は辞書よりも、教室と遊び場だった。

2026-10-05 / 言語と物語の図鑑 編集部

母語話者ゼロから、数百万人へ

言語が消えるときの決め手は、親が子に渡すかどうかだ。では逆に、一度だれの母語でもなくなった言語が、ふたたび子どもの母語になることはあるのか。

例はほぼひとつしかない。ヘブライ語である。話し言葉としてのヘブライ語(ミシュナ・ヘブライ語)は2世紀ごろに使われなくなり、それから約1,700年、だれの母語でもなかった。それがいまでは約500万人の母語になっている。母語話者のいない自然言語が、のちに数百万人の母語話者を得た例はほかにない、と言われるほどだ。

「死んで」はいなかった——祈りと本と、共通語

ただし、ヘブライ語は文字どおり消えていたわけではない。礼拝で唱えられ、聖書や注解が読まれ、詩や手紙も書かれ続けた。住む国も母語も違うユダヤ人どうしが、商売や文通で使う共通語にもなっていた。

つまり「読める・書ける人」は大勢いた。足りなかったのは、台所や遊び場で使う言葉、そしてそれを最初から覚える子どもである。復活とは、眠っていた言語を起こすというより、書き言葉に日常をもう一度与える作業だった。

ベン=イェフダーの家と、学校

象徴として語られるのはエリエゼル・ベン=イェフダー(1858〜1922年)だ。1881年にエルサレムへ移り、家ではヘブライ語だけを話すと決めた。妻がロシア語の子守歌を歌うのさえ咎めたという。1882年に生まれた長男イタマル・ベン=アヴィが、近代で最初のヘブライ語母語話者とされる。

彼はさらに、足りない言葉を作った。人形、アイスクリーム、タオル、自転車、新聞。定着した語もあれば、消えた語もある。1908年に刊行が始まった辞書は、彼の死後も家族と学者が書き継ぎ、全17巻がそろったのは1959年だった。

ただ、一家庭の努力だけで言語は戻らない。決め手になったのは学校である。1886年、リション・レツィオンに近代最初のヘブライ語の学校が開き、1898年には同じ町に最初の幼稚園ができた。教師たちは教科書も用語もないまま、ヘブライ語だけで授業をした。子どもは数か月で話せるようになり、家に帰って親に言葉を持ち込んだ。

年できごと
1881ベン=イェフダー、エルサレムへ
1882長男イタマル誕生。近代最初の母語話者
1886リション・レツィオンにヘブライ語の学校
1890ヘブライ語委員会が発足、新語づくりを担う
1913「言語戦争」。工科学校の授業言語をめぐる対立
1922委任統治で英語・アラビア語と並ぶ公用語に。話者は約8万人
1953委員会を引き継ぎヘブライ語アカデミー設立

言語戦争と、数字の伸び

1913年、ハイファに開く工科学校(のちのテクニオン)の授業をドイツ語で行う計画が持ち上がった。理系の言葉はヘブライ語にはない、という理由だ。これに教師や生徒が反発し、最終的にヘブライ語で教えることになる。この「言語戦争」は、ヘブライ語がユダヤ人社会の公の言語になる分かれ目とされている。

数字もそれを裏づける。1916〜18年の調査では、ユダヤ人住民の約40%がヘブライ語を主な言語とし、子どもに限ると約54%だった。親より子のほうが高い。言語が下の世代から広がっていたことがわかる。1922年、国際連盟が承認した委任統治の文書は、英語・アラビア語と並べてヘブライ語を公用語と定めた。同年の調査で話者は約8万人。いまの姿はヘブライ語の図鑑に書いた。

よみがえった言語は、元の姿そのままでもない。言語学者ギルアド・ツッカーマンは、復活を担った人びとの母語だったイディッシュ語などの影響が大きいとして、これを「イスラエル語」と呼ぶべきだと主張している。異論も多いが、子どもたちが話し継ぐ以上、言語は新しくなっていく。

で、日本語はどうか

ヘブライ語の例は特別だ。ほかに「最後の話者」を失った言語の復活としては、イギリスのコーンウォール語やマン島語がある。どちらも20世紀に復興が進み、ユネスコは2009〜10年に、両言語を「消滅」から「極めて深刻な危機」へ分類し直した。ただ、母語話者の規模はヘブライ語とは比べものにならない。

日本で重なるのは、アイヌ語だろう。話せる人は少ないが、記録や口承の文学は豊かに残っている。ヘブライ語が教えるのは、本と記録だけでは言語は戻らず、それで遊び、けんかし、親に教え返す子どもが要る、ということだ。マオリ語とハワイ語の「言葉の巣」が幼稚園から始まったのと、ちょうど同じように。