ことばKOTOBA
ことばのはなし — 消滅
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最後の話者——エヤック語とヤガーン語が残したもの

「最後の話者」が亡くなると、その言語は消滅したと言われる。だが、その人たちが残した辞書や録音から、ことばを学び直す人が現れている。

2026-10-17 / 言語と物語の図鑑 編集部

「最後の話者」は、一人に決めにくい

1777年12月26日、イギリス南西端の漁村マウズルでドリー・ペントリースが約85歳で亡くなった。コーンウォール語の最後の話者として、いまも名前が挙がる人だ。ところが彼女の死後すぐ、村の漁師ウィリアム・ボディナーは、マウズルだけでコーンウォール語を話せる人を5人知っていると書き残している。1790年代まで生きた母語話者の記録もあり、1914年に存命だったジョン・マンを最後の伝統的な話者とする見方もある。

ずれが出るのは、「話せる」に段階があるからだ。言語学者ナンシー・ドリアンは、スコットランド・ゲール語の一方言の最後の話し手たちを調べ、ふだんは使わないが基本は話せる人を半話者と呼んだ。さらに、単語や決まった文句は覚えていても自分では文をつくれない人は記憶者と呼ばれる。「最後の話者」とは多くの場合、最後の流暢な母語話者のことである。

エヤック語——3,000ページの辞書と、遠くの学び手

2008年1月21日に亡くなったマリー・スミス・ジョーンズは、エヤック語の最後の母語話者だった。言語学者マイケル・クラウスが1960年代はじめに記録を始めたとき、話し手は6人残っていた。クラウスは1970年に約3,000ページのタイプ原稿の辞書をまとめている。

その記録を、思いがけない人が受けとった。フランスの少年ギヨーム・ルデュエは12〜13歳のころに教材を取り寄せて独学を始め、2010年にアラスカを訪れてクラウスに学んだ。いまはエヤック語の講座で教える側にいる。最後の話者が残したのは声だけではなく、学び直せる形だった。

ヤガーン語——孫と一緒につくった本

南米最南端のヤガーン語では、2022年2月16日にクリスティーナ・カルデロンが約93歳で亡くなった。彼女は孫のクリスティーナ・サラガと、2005年に昔話の本を、2010年には子どもの絵を添えた小さな辞書をつくっている。

この言語には、もっと古い記録もある。19世紀の宣教師トーマス・ブリッジズがまとめた約3万語の辞書で、本になったのは1933年だ。100年近く前の辞書と、最後の話者の声。その両方が、いまの学校の授業や辞書づくりの材料になっている。

最後の話者が残したもの

名前が知られている「最後の話者」を並べると、残ったものの形がそれぞれ違う。

言語最後の話者亡くなった年残ったもの
コーンウォール語ドリー・ペントリース(とされる)1777年古い文献。1904年に復興のための入門書が出た
マン島語ネッド・マドレル1974年1948年などの録音。晩年は若い学び手を支えた
ウビフ語テヴフィク・エセンチ1992年デュメジルらとの長年の記録
樺太アイヌ語浅井タケ(とされる)1994年昔話の録音と、2001年の訳注本
エヤック語マリー・スミス・ジョーンズ2008年約3,000ページの辞書原稿
ヤガーン語クリスティーナ・カルデロン2022年昔話の本と、孫と編んだ辞書

ウビフ語は子音が約84もある言語として知られる。テヴフィク・エセンチは研究者に、ここでウビフ語は終わる、という言葉で別れを告げたという。墓石には、この言語を不滅にした人と刻まれた。

一方で、終わらなかった例もある。マン島語は2009年のユネスコの地図で一度「消滅」とされたが、その後「極めて深刻」に改められた。コーンウォール語も同じように「消滅」から「極めて深刻」へ評価が変わっている。マン島にはマン島語で授業をする小学校があり、2016年には約67人の子どもが通っていた。

で、日本語はどうか

日本にも「最後の話者」の物語がある。1902年に樺太で生まれた浅井タケは、樺太アイヌ語を話せた最後の伝承者の一人とされ、1994年に約92歳で亡くなった。1983年ごろに出会った言語学者村崎恭子とは樺太アイヌ語で語り合い、その昔話は2001年、54話を収めたCDつきの本になった。

北海道のアイヌ語は、ユネスコの区分では「極めて深刻」にあたる(アイヌ語の図鑑)。話し手の数だけを見れば終わりが近く見えるが、エヤック語やマン島語の例は、記録と学び手があれば話は続くことを示している。

最後の話者が亡くなる日は、ことばの終わりの日として記録される。だが、その人が残したものを誰かが開いた日から、次の話が始まる。エヤック語・マン島語・コーンウォール語の例から