「ありがとう」は、もとはお礼の言葉ではなかった
『枕草子』に「ありがたきもの」という段がある。挙がるのは舅にほめらるる婿、姑にかわいがられる嫁。ここでの「ありがたし」は「有り難し」、つまり存在するのが難しい=めったにないという意味だ。約1,000年前の「ありがたい」は、感謝ではなく「珍しい」だった。
感謝のことばは、はじめから感謝のために作られたわけではない。多くの言語で、別の意味のことばがお礼の場面に呼ばれ、そこに住みついた。その「別の意味」をくらべると、人がお礼に何を込めてきたかが見えてくる。索引に並ぶ「ありがとう」から、いくつか掘ってみる。
「考える」から来た——英語とドイツ語
英語のthankとドイツ語のdankeは、同じゲルマン祖語 *þankaz にさかのぼる。意味は「思い・考え」。英語のthinkとは、sing と song のような親戚である。古英語の þanc も最初は「考え」で、そこから「よい思い」「感謝」へ移った。「お礼を言う」の意味に絞られたのは約1200年ごろとされる。
スウェーデン語のtack、デンマーク語のtakも同じ根から来ている。北ヨーロッパの感謝は、あなたのことを思っているという表明から始まったことになる。
「代価」と「恵み」——ラテン語の子どもたち
同じヨーロッパでも、ラテン語の子孫は別の道を通った。
| ことば | もとの語 | もとの意味 |
|---|---|---|
| Merci(フランス語) | ラテン語 mercēs | 賃金・代価・報酬 |
| Gracias / Grazie(スペイン語・イタリア語) | ラテン語 grātia | 恵み・好意(grātiās agere=感謝する) |
| Obrigado(ポルトガル語) | ラテン語 obligātus | 義務を負わされた |
フランス語の merci は「支払い」の語から、神の「あわれみ」を経てお礼になった。英語の mercy と同じ出どころである。「grand merci」の形で、12世紀初めには使われていた。ポルトガル語の obrigado は「あなたに借りができた」。話し手が男性なら obrigado、女性なら obrigada と、今も形容詞として性が変わる。お礼を貸し借りとしてとらえる発想は、日本語の「恩に着る」にも近い。
祈り・ほめ言葉・あいさつから
ロシア語のспасибо(スパシーバ)は、「спаси Бог(神よ救いたまえ)」が縮まって1語になったものだ。1650〜60年代には、オスマン帝国の旅行家エヴリヤ・チェレビが記録している。アイルランド語のgo raibh maith agatも直訳すると「あなたに良きことがありますように」。お礼は、祈りの形をしていることが多い。
スワヒリ語のasanteは、オマーンのアラビア語を通して入った語で、もとはaḥsanta「よくやった」というほめ言葉である。ハンガリー語の köszönöm の動詞 köszön は、目的語をとると「感謝する」、とらないと「あいさつする」になる。テュルク系の語から来て、「願う」が「相手の幸せを願う」に狭まったとみられている。
アジアにも別の型がある。中国語の谢谢の「謝」には、辞退する・わびる・礼を言う、という意味が並ぶ。日本語でも「謝る」と「感謝」に同じ字を使う。インドネシア語のterima kasihは、terima が「受け取る」。kasih を「愛情」と読むか「与える」と読むかで説が分かれ、「情けを受けた」とも「くださったものを受け取る」ともとれる。ヒンディー語の dhanyavād はサンスクリット語の dhanya(よい・幸いな)+ vāda(ことば)の組み合わせだ。
で、日本語はどうか
「ありがとう」は、形容詞「有り難し」の連用形「ありがたく」の音が変わった形である。『日本国語大辞典』によると、室町のころ、感謝には主にかたじけないが使われ、「ありがたい」が優勢になるのは元禄(17世紀末)以降だという。「めったにない」が「めったにないほどの好意をいただいた」へ移り、お礼の座についた。
ときどき聞く「ポルトガル語の obrigado から来た」という説は俗説である。「有り難し」は、ポルトガル人が種子島に来る(1543年)約540年前の『枕草子』にすでに出てくる。音が少し似ているのは偶然だ。
並べてみると、お礼の出どころは大きく「考える」「代価・借り」「恵み」「祈り」「ほめる」「わびる」、そして日本語の「めったにない」に分かれる。同じ一言でも、言語ごとに違う気持ちを背負っている。
言語や文字の分類は研究者によって幅があります。本文は代表的な整理にもとづく概説です。