「ん」はひとつの字なのに、口の形は毎回ちがう
「さんぽ」「さんど」「さんか」と、ゆっくり言ってみてほしい。どれも同じ「ん」と書くが、口の中はばらばらに動いている。さんぽの「ん」では唇がぴったり閉じ、さんどでは舌先が歯ぐきにつき、さんかでは舌の奥が上あごの奥に持ち上がる。音声記号で書けば、それぞれ[m]、[n]、[ŋ]。英語なら3つとも別の文字で書く、別の音だ。
それでも日本語の話し手は、これを「同じ音」だと感じている。ここに、言語学でいちばん基本的で、いちばん見落とされやすい区別が隠れている。
音素と異音——頭の中のひとつ、口から出るいくつか
言語学では、その言語の話し手が「同じ音」とみなすまとまりを音素と呼び、/ / で囲んで書く。実際に口から出る具体的な音は [ ] で書く。ひとつの音素が場面に応じて出し分けられるとき、その一つひとつを異音(allophone)という。この語は、アメリカの言語学者ベンジャミン・リー・ウォーフが1929年ごろに使いはじめ、1941年のトレーガーとブロックの英語音韻論の論文で広まったとされる。
異音には大きく2つの出方がある。ひとつは、どこに出るかが前後の音で決まっている相補分布。「ん」はこちらの代表例だ。もうひとつは、どちらを使ってもよい自由変異で、人によって、気分によって揺れる。どちらの場合も、入れかえても単語の意味は変わらない。意味が変わるなら、それはもう別の音素である。
「ん」の顔ぶれを並べてみる
日本語の「ん」(音韻論では /N/ と書く)は、次に来る音に口の形を合わせて変わる。代表的な整理は次のとおりだ。
| 次に来る音 | 「ん」の実際の音 | 例 |
|---|---|---|
| p・b・m(パ行・バ行・マ行) | [m] 唇を閉じる | 三枚、さんぽ |
| t・d・n・ts など | [n] 舌先を歯ぐきに | 三年、さんど |
| ch・j(チ・ジ) | [ɲ] 舌の前を上あごに | 三兆 |
| k・g(カ行・ガ行) | [ŋ] 舌の奥を上げる | 三回、さんか |
| 母音・y・w・s・h など | 鼻にかかった母音のような音 | 弾圧、寒明け |
| 文の終わり | 伝統的には [ɴ](のどの奥) | 本、パン |
つまり「ん」は、次の音の準備を先取りしている音なのだ。唇を閉じるパ行が来るなら先に閉じておき、舌の奥を使うカ行が来るなら先に上げておく。こうして前後の音に寄っていく現象を同化という。
英語の p、韓国語の「プル」
異音は日本語だけの話ではない。英語の pin の p は、口の前に手をかざすと息が強く当たる有気音 [pʰ]だ。ところが spin の p は息がほとんど出ない [p] になる。英語の話し手はふつう、この差にまったく気づかない。どちらも /p/ の異音だからだ。leaf の明るい l と feel のこもった l も、多くの英語で同じ /l/ の異音とされる。
ところが、同じ差がほかの言語では「別の音素」になる。韓国語では、息の強さのちがいがそのまま単語を分ける。불(プル、火)、뿔(ップル、角)、풀(プル、草)は、日本語の耳にはどれも「プル」に近いが、韓国語では3つの別の語だ。タイ語でも、息を伴うかどうかで子音が分かれる。英語では「気づかない差」が、韓国語やタイ語では「聞き逃すと意味を取りちがえる差」になる。
逆の例もある。スペイン語の d は、語頭では [d] だが、母音のあとでは舌を歯に近づけるだけの摩擦の音 [ð] になる。英語の there の th に近い音だ。英語では dare と there を分ける別々の音素なのに、スペイン語では同じ /d/ の異音にすぎない。どの差を「同じ」とみなすかは、言語ごとに引かれた線なのである。
で、日本語はどうか
「ん」をひとつの字で書けるのは、かなが音素に近い単位で作られているからだ。話し手が区別しない差は、文字にも書き分けない。一方、ローマ字は事情がちがう。伝統的なヘボン式では、b・m・p の前の「ん」を m で書き、新橋を Shimbashi、群馬を Gumma とつづった。異音の [m] を文字に写した書きかただ。修正ヘボン式ではこれをやめ、Shinbashi、Gunma と n にそろえている。駅や道路の看板に両方が残っているのは、異音を書くか、音素を書くかという2つの考え方の名残である。
文の終わりの「ん」も、教科書の説明ほど単純ではない。伝統的にはのどの奥で閉じる [ɴ] とされてきたが、MRIで舌の動きを撮った研究では、閉じる位置はのどの奥から歯ぐきまで揺れ、直前の母音に引きずられていた。のどの奥で閉じるのは、ほぼ「あ」と「お」のあとに限られ、約5%は口をどこも閉じない鼻母音だったという。「ほん」と「きりん」でさえ、同じ「ん」ではないのだ。
異音は、ふだん耳に入らないからこそ面白い。日本語を話す人が「ん」の差に気づかないのは鈍いからではなく、気にしなくていい差を上手に聞き流せているからである。
言語や文字の分類は研究者によって幅があります。本文は代表的な整理にもとづく概説です。