ひとりの眼科医がつくった言語が、140年近く話されつづけている
1887年、当時ロシア帝国領だったワルシャワで、薄い教本が1冊出た。書名は『国際語』。ロシア語で書かれ、著者名はDoktoro Esperanto——「希望する人」という意味の筆名だった。書いたのはビャウィストク出身のユダヤ人眼科医、ルドヴィコ・ザメンホフである。この筆名が、そのまま言語の名前になった。
ふつう言語は、誰かが「つくる」ものではない。クレオールのように人が集まる場所で自然に生まれ、語族のように何千年もかけて枝分かれする。人工言語は、その逆だ。作者と誕生日がわかっている。エスペラントはその中で、いまも話し手の共同体を持ちつづけている、ほぼ唯一の例である。
文法は16の規則におさまる
最初の教本には、約917の語根と、16の文法規則が載っていた。しくみは徹底して規則的だ。品詞は語尾でわかる。
| 語尾 | 品詞 | 例 |
|---|---|---|
| -o | 名詞 | espero(希望) |
| -a | 形容詞 | bona(良い) |
| -e | 副詞 | bone(良く) |
| -i | 動詞の不定形 | esperi(希望する) |
複数は -j、目的語は -n をつける。動詞は人称で変わらず、現在 -as・過去 -is・未来 -os・条件 -us・命令 -u の5つだけ。反対の意味は接頭辞 mal- でつくるので、bona(良い)の反対は malbona(悪い)になる。「ありがとう」は Dankon。
話し手は何人か——推計は約3万から約200万まで
ここが本題だ。エスペラントの話し手の数は、推計によって桁が変わる。国勢調査で「エスペラント」と答える欄を持つ国はほとんどなく、全世界で数えた人はいないからだ。
| 推計 | 数え方 | 人数 |
|---|---|---|
| シドニー・カルバート(ワシントン大学) | 数十か国で面接し、実用に足る運用力を確かめた | 約200万 |
| アムリ・ワンデル(ヘブライ大学・2015年) | Facebook で「話せる」と登録した人から逆算 | 約192万 |
| スヴェン・ヴェンデルボー | 少なく見積もる立場 | 約3万〜約18万 |
| 母語話者(2022年の推計) | 親から受け継いだ人 | 約1,000 |
ワンデルの計算はわかりやすい。2014年末に Facebook で「エスペラントを話す」と示していた人は約32万人。その半分だけが本当に話せると割り引き、逆に話せる人の3分の1しか登録していないと見て3倍し、Facebook 利用者が世界の約1割、ネット利用者が約4割という比率で広げる。すると約192万になる。同じ方法をフランス語・ドイツ語・ヘブライ語に当ててみると、Facebook 上の話し手は実際の話し手の約1〜2割に収まり、つじつまが合うという。
ただしワンデル本人も、この数字は割り引いて読むべきだと書いている。同じ方法でクリンゴン語を調べると、「話せる」人が約25万人も出てしまうからだ。これはおそらく、話し手の数ではなく『スタートレック』のファンの数である。「話せる」の線をどこに引くかで数が変わるのは、言語の数そのものと同じ構図だ。
人工言語は、エスペラントだけではない
記録に残る最初の人工言語は、12世紀に修道女ヒルデガルト・フォン・ビンゲンが書き残したリングア・イグノタだとされる。エスペラントの8年前、1879年にはドイツの司祭シュライヤーがヴォラピュクを発表し、10年ほどで世界に約283のクラブができた。だが内部の対立で、1890年代半ばには勢いを失った。
20世紀には、物語のための言語が増える。トールキンのクウェンヤとシンダリン、1985年にマーク・オークランドが整えたクリンゴン語、2011年にデイヴィッド・J・ピーターソンが『ゲーム・オブ・スローンズ』のためにつくったドスラク語。2001年に発表されたトキポナは逆に、単語を約120〜137語まで絞った小さな言語だ。名前の pona は、エスペラントから借りている。
で、日本語はどうか
日本へは早くから届いた。1906年、二葉亭四迷が日本初の教本『世界語』を出し、同じ年に日本エスペラント協会が設立された。1919年には日本エスペラント学会が発足し、1926年に財団法人となる。いまの一般財団法人日本エスペラント協会の会員は約1,050人だ。
宮沢賢治も、1926年の東京滞在中にタイプライターやチェロと並べてエスペラントを学んでいる。自作の詩をエスペラントに訳した原稿が残り、それが世に出たのは没後の1953年だった。
日本語の話し手は約1億2,500万人、エスペラントは多く見ても約200万人。数では比べものにならない。それでも、国を持たず、母語話者もほとんどいない言語が、100年以上ひとの手から手へ渡ってきた。言語を生かすのは国家だけではない、という実例である。
言語や文字の分類は研究者によって幅があります。本文は代表的な整理にもとづく概説です。