「A」は、もとは牛の頭だった
アルファベットの最初の文字 A を、上下さかさまにしてみてほしい。2本の角を生やした顔に見えないだろうか。これは偶然ではない。A の祖先は、古代エジプトの象形文字にあった「牛の頭」の絵である。2番目の B の祖先は「家」の絵だ。
ローマ字も、ギリシャ文字も、キリル文字も、ヘブライ文字も、アラビア文字も、たどっていくとひとつの文字にゆきつく。地中海東岸の港町で使われたフェニキア文字である。
絵を「音」として借りる
話は、さらに前にさかのぼる。エジプトの砂漠では、紀元前約1900〜1800年ごろとされる碑文が見つかっている。シナイ半島のセラビト・エル・ハディムでは、1904〜1905年にペトリー夫妻が掘り当てた碑文がある。これらは原シナイ文字と呼ばれ、1916年に言語学者アラン・ガーディナーが、セム語の文字の初期形だと唱えた。
しくみは単純だ。象形文字の絵を借り、その絵が表すもののセム語の名前の、最初の音だけを読む。「家」はセム語で baytu だから、家の絵は /b/ の音になる。「牛」は ʾalp だから、牛の頭は語頭の声門閉鎖 /ʔ/ になる。これを「頭音法」という。数百あった絵が、数十の音の記号に絞られた瞬間だった。
22文字、母音はなし
原シナイ文字から、紀元前約1050年ごろにフェニキア文字が整う。もっとも、確かな年代のわかる最古の碑文は紀元前10世紀のもので、ビブロスで見つかったアヒラム王の石棺(紀元前約1000年)がよく知られている。
フェニキア文字は22文字、すべて子音だった。母音は読み手が補う。セム語は子音の骨組みが意味を運ぶので、それで十分に読めた。これが「アブジャド」と呼ばれる型である(くわしくは文字の5つの型の記事で書いた)。文字の名前も、アレフ(牛)、ベト(家)のように、もとの絵の意味を残している。
西へ、東へ
フェニキア人は交易の民で、文字は船とともに広がった。子孫の枝を大きく分けると、次のようになる。
| 経路 | おもな子孫 | 時期(約) |
|---|---|---|
| 西へ:ギリシャ | ギリシャ文字 | 紀元前800年ごろ |
| ギリシャ → エトルリア | ラテン文字(ローマ字) | 紀元前7世紀ごろ以降 |
| ギリシャ → スラヴ | キリル文字 | 9世紀(第一次ブルガリア帝国) |
| 東へ:アラム文字 | ヘブライ文字(方形文字) | 紀元前後 |
| アラム → ナバテア | アラビア文字 | 4世紀ごろまでに |
| アラム → ソグド → ウイグル | モンゴル文字 | 1204年 |
西の枝で起きた大事件は、ギリシャ人が母音の文字を作ったことだ。ギリシャ語にない子音の文字を、母音に回したのである。声門閉鎖のアレフはアルファ(a)に、/h/ のヘーはエプシロン(e)に、喉の奥の音のアインはオミクロン(o)になった。子音と母音を同じ列に並べる、本当の意味での「アルファベット」はここで生まれた。
東の枝では、アラム文字がペルシャ帝国の公用文字として紀元前約500年ごろに広く使われ、そこから中東の文字の大半が分かれた。ヘブライ語の方形文字も、アラビア語の文字も、この枝にある。さらにソグド文字、ウイグル文字を経て、縦書きのモンゴル文字まで届いた。右から左へ書いていた文字が、草原で縦になったのだ。
インドのブラーフミー文字(紀元前3世紀のアショーカ王碑文が最古)も、アラム文字の影響を受けたとする説が欧米では有力である。ただし直接の証拠がなく、決着はついていない。ブラーフミー文字は、ヒンディー語のデーヴァナーガリーやタイ文字など、南アジアと東南アジアの数十の文字の祖先になった。
で、日本語はどうか
かなはフェニキア文字の子孫ではない。漢字から生まれた、まったく別の系統である。ところが、意外なところで縁がある。五十音図の並べ方だ。
「あいうえお」と母音を先に置き、子音を「か」(のどの奥)から「ま」(くちびる)へと口の奥から前へ並べる。この順序は、サンスクリット語の音声学と、それを書いた悉曇(しったん)文字、つまりブラーフミー系の文字の並べ方にならったものと考えられている。五十音図に似た表の最古の例は、11世紀前半の写本に見られる。
もしブラーフミー文字がアラム文字の影響を受けていたなら、五十音図の並びにも、遠くフェニキアの影が差していることになる。ローマ字の A を書くときも、「あ・か・さ・た・な」と唱えるときも、ほかの文字の系譜は索引から言語ごとにたどれる。
言語や文字の分類は研究者によって幅があります。本文は代表的な整理にもとづく概説です。