「アフメットが来た」を、2通りに言い分ける
トルコ語で「アフメットが来た」は Ahmet geldi とも Ahmet gelmiş とも言える。違いは語尾の -di と -miş だけだ。『世界言語構造地図(WALS)』の説明では、geldi は話し手が来たところを見ていた場合、gelmiş は見ていない場合に使われる。玄関に靴があった、だれかから聞いた——そういうときは gelmiş になる。
このように、「その情報をどうやって知ったのか」を文法で示す仕組みを証拠性(エビデンシャリティ)という。英語の evidential という用語は、言語学者ロマン・ヤコブソンが1957年に、ブルガリア語などバルカン半島のスラヴ語を説明するために使ったのが始まりとされる。
集計によっては、半分を超える言語が持っている
WALS の第77章(de Haan)は、約418の言語を「証拠性を文法で示すかどうか」で分類している。
| 分類 | 言語数(約418言語中) | 中身 |
|---|---|---|
| 文法的な証拠性なし | 181 | 英語・タイ語・ポリネシアの言語など |
| 間接の証拠性だけ | 166 | 「見ていない」「聞いた」ことだけを示す |
| 直接と間接の両方 | 71 | 「見た」ことも「見ていない」ことも示す |
WALS の定義では、直接の証拠性は話し手が見た・聞いたなど感覚で確かめた場合に、間接の証拠性はその場にいなかったが後から知った場合に使う。おもしろいのは、「見た」の印だけを持つ言語がサンプルに1つもないことだ。印を持つ言語は約418のうち約237で、半分を超える。一方、言語学者アイケンヴァルドは、世界の言語の約4分の1が文法的な証拠性を持つと見積もっている。オランダ語の助動詞のような「らしい」の表現まで数えるかどうかで、数字はこれだけ変わる。
分布にははっきりした偏りがある。アフリカにはほとんどなく、ヨーロッパでは英語以外のゲルマン語に間接の印がある。たとえばオランダ語の Het moet een goede film zijn は「いい映画らしい(直接の証拠はない)」という意味になる。アジアではジョージア語を含むコーカサスと、チベット語の仲間が多いヒマラヤ地域に集まる。WALS はこれを、系統よりも「地域で広まる特徴」だと見ている。
3つの印——ケチュア語の雨
南米アンデスのケチュア語(クスコ方言)は、文の要素の後ろに小さな印をつけて情報源を示す。言語学者マルティナ・ファラーの研究に、こんな例がある。
| 文 | 話し手は… |
|---|---|
| Parasharqanmi | 雨が降っていたのを見た |
| Parasharqansi | 雨が降っていたと人から聞いた |
| Parasharqanchá | 雨が降っていたのだろうと推測している |
どれも「雨が降っていた」という中身は同じだ。違うのは、その話にどれだけ自分が責任を持てるかである。ファラーは、-mi を単に「直接見た」とするより、「話し手が持ちうる最良の根拠がある」と考えたほうが用法全体をうまく説明できると論じている。
5つを使い分ける言語——トゥユカ語
もっと細かい言語もある。コロンビアのバウペス県とブラジルのアマゾナス州で話されるトゥユカ語は、情報源を5つに分けることで知られる。言語学者ジャネット・バーンズ(1984年)の整理では、見た(視覚)、見てはいないが音や感触でわかった(非視覚)、状況から明らかだ(推論)、人から聞いた(伝聞)、たぶんそうだと思う(推定)の5つである。
バーンズの例 díiga apé-wi は「彼はサッカーをした」で、語尾の -wi が「私はそれを見た」を表す。この語尾は同時に、過去であること、三人称・男性・単数であることも示している。WALS によれば、トゥユカ語では「エンジンがうなった」「おなかが痛い」に非視覚の印を使う。耳で聞いたこと、体で感じたことも、見たこととは区別されるわけだ。
で、日本語はどうか
日本語には、トルコ語の -miş のように必ずつけなければならない印はない。「雨が降った」は、見ていても聞いただけでも言える。ただ、言いたければ言い分ける道具はそろっている。「降るそうだ」は人から聞いた話、「降るらしい」は根拠のある推測、「降るようだ」は様子からの判断だ。Wikipedia の Evidentiality の項目も、日本語を推論と伝聞の印を持つ言語として挙げている。
英語にも apparently や I heard that がある。違いは、それが「言ってもいい」ものか、「言わないと文が完成しない」ものかにある。
言語や文字の分類は研究者によって幅があります。本文は代表的な整理にもとづく概説です。