ことばのはなし — 文法
tu · vous · 하십시오

敬語は日本語だけのものではない

世界の約207言語を並べて数えると、丁寧さの区別を文法に持つ言語は約3割ある。日本語の敬語は特殊な例ではなく、よくある仕組みのかなり手の込んだ一種である。

2026-09-21 / 言語と物語の図鑑 編集部

「敬語は日本語だけ」は、統計とかみ合わない

敬語は日本語の特殊事情だ、という言い方をよく聞く。ただ、数えてみるとその言い方は通らない。World Atlas of Language Structures(WALS)の「二人称代名詞における丁寧さの区別」(Johannes Helmbrecht)は、約207言語を4つの型に分けている。

言語数
丁寧さの区別なし約136英語・フィンランド語
2段階の区別約49フランス語 tu / vous、ドイツ語 du / Sie
3段階以上の区別約15ヒンディー語・タミル語ハンガリー語
丁寧にするとき代名詞を避ける約7日本語・韓国語・タイ語

たしかに「区別なし」が約3分の2で最多だ。だが裏を返せば、丁寧さを文法に組み込んだ言語が約70、全体の約3分の1ある。珍しい仕組みではない。

「あなた」と言わない、という共通の作法

おもしろいのは最後の「代名詞を避ける」型だ。該当する7言語は、ビルマ語・インドネシア語・日本語・クメール語・韓国語タイ語ベトナム語。きれいに東アジアから東南アジアに並ぶ。

ベトナム語では、相手を呼ぶ語のほとんどが親族名称である。年上の男性なら anh(兄)、年下なら em(弟妹)。しかも対になっていて、相手を anh と呼んだ自分は em を名乗る。初対面でも年齢を見立てて親族の位置を割り振るので、中立の「あなた」はそもそも用意されていない。

日本語で目上に「あなた」と言いにくいのも同じ回避だ。役職名や名字が、代名詞の代わりをしている。

語彙をまるごと入れ替える言語

もっと徹底した言語もある。ジャワ島のジャワ語は、段階ごとに単語そのものが別になる。「食べる」は mangan(ngoko=ふだんの形)、nedha(madya=中間)、dhahar(krama inggil=高い形)。語尾を足すのではなく、語彙表が何枚もある感覚に近い。段階をいくつに数えるかは研究者しだいで、1899年のパドマスサストラは13段階、いまはngoko・madya・kramaの3段階とする説明が多い。

タイ語のラーチャーサップ(ราชาศัพท์、王室用語)も語彙を入れ替える型だ。王族や僧侶について話すときは専用の語を使う。その多くはクメール語から、一部はパーリ語から借りた語で、学校の国語で教わる正式な知識になっている。敬意のために、語を外から丸ごと輸入したわけだ。

動詞が「聞き手」を覚えている——バスク語のヒカ

バスク語には、二人称の親しい形 hika と標準の形 zuka がある。ヒカで話すとき、動詞の形が聞き手の性別で変わる。男性相手なら -k、女性相手なら -n の要素が入る。

妙なのは、この聞き手が文の登場人物でなくてもよいことだ。「雨が降っている」と言うだけでも、誰に向けた言葉かが動詞に刻まれる。聴者一致(allocutive agreement)と呼ばれる。

しかもバスク語には文法上の性がない。名詞にも代名詞にも区別がないのに、この親しい形のところだけ性が顔を出す。距離の調節が、文法のいちばん奥まで入り込んでいる例だ。

英語は、いちど敬語を捨てた

英語に丁寧さの区別がないのは、もともと無かったからではない。かつては thou(親しい形)と you(丁寧な形)が対になっていた。いまの you は、もとは複数形の敬称だったほうである。

Brown と Gilman は1960年の論文「The Pronouns of Power and Solidarity」で、この対立の軸が20世紀にかけてから親しさへ移ったと論じた。中世には、皇帝や教皇に vos で呼びかけ、返るのは tu という非対称が普通だった。

英語では17世紀に thou がすたれ、18世紀初めには you に一本化する。クエーカーは逆に、平等の証として thou を使いつづけた。創始者のジョージ・フォックスは1660年、単数の相手に you を使う者を批判する本まで書いている。敬語の有無は、言語の性格というより歴史の結果だ。

で、日本語はどうか——3分類から5分類へ

日本語の敬語は長く「尊敬語・謙譲語・丁寧語」の3分類で説明されてきた。これを変えたのが2007年2月2日の文化審議会答申「敬語の指針」で、尊敬語・謙譲語Ⅰ・謙譲語Ⅱ(丁重語)・丁寧語・美化語の5分類になった。

「先生のところに伺う」(謙譲語Ⅰ=向かう先を立てる)と「明日から東京へ参ります」(謙譲語Ⅱ=聞き手に改まる)は、ひとくくりにすると働きが見えない。「お茶」の「お」も誰かを立ててはいないので、美化語として別枠になった。

もうひとつの特徴が、日本語は相対敬語だという点だ。社外の人に上司を話題にするときは「社長はおりません」と下げる。韓国語は絶対敬語寄りで、身内の年長者にも敬語を使うのが基本とされる。誰を立てるかの計算式そのものが違う。

どの言語も、相手との距離をどこかで測っている。測る道具が代名詞なのか、動詞の語尾なのか、語彙表そのものなのかが違うだけだ。英語話者も first name で呼ぶかどうかを毎回決めている