「敬語は日本語だけ」は、統計とかみ合わない
敬語は日本語の特殊事情だ、という言い方をよく聞く。ただ、数えてみるとその言い方は通らない。World Atlas of Language Structures(WALS)の「二人称代名詞における丁寧さの区別」(Johannes Helmbrecht)は、約207言語を4つの型に分けている。
| 型 | 言語数 | 例 |
|---|---|---|
| 丁寧さの区別なし | 約136 | 英語・フィンランド語 |
| 2段階の区別 | 約49 | フランス語 tu / vous、ドイツ語 du / Sie |
| 3段階以上の区別 | 約15 | ヒンディー語・タミル語・ハンガリー語 |
| 丁寧にするとき代名詞を避ける | 約7 | 日本語・韓国語・タイ語 |
たしかに「区別なし」が約3分の2で最多だ。だが裏を返せば、丁寧さを文法に組み込んだ言語が約70、全体の約3分の1ある。珍しい仕組みではない。
「あなた」と言わない、という共通の作法
おもしろいのは最後の「代名詞を避ける」型だ。該当する7言語は、ビルマ語・インドネシア語・日本語・クメール語・韓国語・タイ語・ベトナム語。きれいに東アジアから東南アジアに並ぶ。
ベトナム語では、相手を呼ぶ語のほとんどが親族名称である。年上の男性なら anh(兄)、年下なら em(弟妹)。しかも対になっていて、相手を anh と呼んだ自分は em を名乗る。初対面でも年齢を見立てて親族の位置を割り振るので、中立の「あなた」はそもそも用意されていない。
日本語で目上に「あなた」と言いにくいのも同じ回避だ。役職名や名字が、代名詞の代わりをしている。
語彙をまるごと入れ替える言語
もっと徹底した言語もある。ジャワ島のジャワ語は、段階ごとに単語そのものが別になる。「食べる」は mangan(ngoko=ふだんの形)、nedha(madya=中間)、dhahar(krama inggil=高い形)。語尾を足すのではなく、語彙表が何枚もある感覚に近い。段階をいくつに数えるかは研究者しだいで、1899年のパドマスサストラは13段階、いまはngoko・madya・kramaの3段階とする説明が多い。
タイ語のラーチャーサップ(ราชาศัพท์、王室用語)も語彙を入れ替える型だ。王族や僧侶について話すときは専用の語を使う。その多くはクメール語から、一部はパーリ語から借りた語で、学校の国語で教わる正式な知識になっている。敬意のために、語を外から丸ごと輸入したわけだ。
動詞が「聞き手」を覚えている——バスク語のヒカ
バスク語には、二人称の親しい形 hika と標準の形 zuka がある。ヒカで話すとき、動詞の形が聞き手の性別で変わる。男性相手なら -k、女性相手なら -n の要素が入る。
妙なのは、この聞き手が文の登場人物でなくてもよいことだ。「雨が降っている」と言うだけでも、誰に向けた言葉かが動詞に刻まれる。聴者一致(allocutive agreement)と呼ばれる。
しかもバスク語には文法上の性がない。名詞にも代名詞にも区別がないのに、この親しい形のところだけ性が顔を出す。距離の調節が、文法のいちばん奥まで入り込んでいる例だ。
英語は、いちど敬語を捨てた
英語に丁寧さの区別がないのは、もともと無かったからではない。かつては thou(親しい形)と you(丁寧な形)が対になっていた。いまの you は、もとは複数形の敬称だったほうである。
Brown と Gilman は1960年の論文「The Pronouns of Power and Solidarity」で、この対立の軸が20世紀にかけて力から親しさへ移ったと論じた。中世には、皇帝や教皇に vos で呼びかけ、返るのは tu という非対称が普通だった。
英語では17世紀に thou がすたれ、18世紀初めには you に一本化する。クエーカーは逆に、平等の証として thou を使いつづけた。創始者のジョージ・フォックスは1660年、単数の相手に you を使う者を批判する本まで書いている。敬語の有無は、言語の性格というより歴史の結果だ。
で、日本語はどうか——3分類から5分類へ
日本語の敬語は長く「尊敬語・謙譲語・丁寧語」の3分類で説明されてきた。これを変えたのが2007年2月2日の文化審議会答申「敬語の指針」で、尊敬語・謙譲語Ⅰ・謙譲語Ⅱ(丁重語)・丁寧語・美化語の5分類になった。
「先生のところに伺う」(謙譲語Ⅰ=向かう先を立てる)と「明日から東京へ参ります」(謙譲語Ⅱ=聞き手に改まる)は、ひとくくりにすると働きが見えない。「お茶」の「お」も誰かを立ててはいないので、美化語として別枠になった。
もうひとつの特徴が、日本語は相対敬語だという点だ。社外の人に上司を話題にするときは「社長はおりません」と下げる。韓国語は絶対敬語寄りで、身内の年長者にも敬語を使うのが基本とされる。誰を立てるかの計算式そのものが違う。
言語や文字の分類は研究者によって幅があります。本文は代表的な整理にもとづく概説です。