ラテン語には「はい」も「いいえ」もなかった
「はい」と「いいえ」は、どの言語にもある当たり前の単語に思える。ところが、ヨーロッパの多くの言語の祖先であるラテン語には、英語の yes や no にあたる専用の1語がなかった。答えるときは、問いの動詞をくり返すか、「たしかに」を意味する certe のような副詞を使った。キケロの文には Certe non(たしかに、ちがう)という返事が出てくる。
専用の「はい・いいえ」を持たない言語は、いまも少なくない。では、そういう言語の話し手は、どうやって質問に答えているのだろうか。
動詞をくり返して答える——こだま式の返事
いちばん多いのは、問いの動詞をそのまま返すやり方だ。言語学ではエコー応答と呼ばれる。フィンランド語で Tuletteko kaupungista?(町から来るところですか)と聞かれたら、Tulemme(来るところです)と動詞で答える。フィンランド語にも「はい」にあたる語はあるが、動詞で返すのはごく自然な答え方だ。
ウェールズ語はもっと徹底している。Ydy Ffred yn dod?(フレッドは来るの?)には Ydy(来る)、否定なら Nac ydy(来ない)と答える。動詞の形や人称によって返事の語が変わるので、学習者がつまずきやすいところだ。アイルランド語も同じ型で、An bhfuil…?(〜ですか)と聞かれたら Tá(そうだ)か Níl(ちがう)で答える。
中国語でも、「你去不去?」(行く?行かない?)には「去」か「不去」と、動詞で返すのがふつうだ。「是」や「对」もあるが、どんな問いにも使える万能の「はい」ではない。
「はい」の語源と、言語の地図
ラテン語の子孫たちは、それぞれ別の語から「はい」を作り出した。スペイン語の sí は、「そのように」を意味するラテン語 sīc から来ている。フランス語の oui は古フランス語の oïl にさかのぼり、さらに俗ラテン語の hoc ille(それはそれだ)に行き着くとされる。南フランスでは hoc だけが残って oc になった。
この違いは、言語の分類にまで使われた。14世紀のはじめごろ、イタリアの詩人ダンテは『俗語論』で、ロマンス語を「はい」の言い方で3つに分けている。
北フランスの諸方言を「オイル語」、南フランスの言葉を「オック語」と呼ぶのは、ここから来ている。「はい」のひと言が、方言の境界線になったわけだ。
否定の問いに答える——「はい」が3つある言語
「はい・いいえ」がある言語でも、否定の問いへの答え方は分かれる。フランス語では、ふつうの問いには oui、「行かないの?」のような否定の問いを打ち消して「いや、行く」と言うときは si を使う。ドイツ語の ja / doch / nein、スウェーデン語の ja / jo / nej も同じ3つ組だ。
| 言語 | ふつうの問いに肯定 | 否定の問いを打ち消す | 否定 |
|---|---|---|---|
| フランス語 | oui | si | non |
| ドイツ語 | ja | doch | nein |
| スウェーデン語 | ja | jo | nej |
じつは昔の英語にも似た区別があった。yea と nay はふつうの問いに、yes と no は否定の問いに使う4つ組で、yes は否定の問いを打ち消す語だったという。ただ、この使い分けはシェイクスピアの時代にはすでに守られないことも多く、やがて yes と no の2つにまとまった。
で、日本語はどうか
日本語の「はい・いいえ」は、英語とは仕組みがちがう。「行かないの?」と聞かれて「はい」と答えると、「はい、行きません」の意味になる。日本語の「はい」は、事実が肯定か否定かではなく、相手の言ったことに同意するかどうかを表しているからだ。英語の yes は「行く」という事実の側に立つので、同じ場面で yes と言えば「行く」になる。
日本語の話し手が英語の否定疑問で迷うのは、このずれのせいである。どちらが正しいわけでもない。「同意」を答えるか、「事実」を答えるか、言語ごとに違う道を選んだだけだ。そう考えると、動詞をくり返して答えるアイルランド語やウェールズ語のやり方は、いちばん誤解の少ない答え方なのかもしれない。
言語や文字の分類は研究者によって幅があります。本文は代表的な整理にもとづく概説です。